君の瞳に不安の色が揺らめいてみえるのは、私の思い過ごしなのだろうか? ただの思い過ごしならいい けれど、その瞳の内の光の揺らめきは日に日に大きくなっているようにも思えて それが私を不安にさせる――― 小さな、華奢な身体に、大きすぎる期待と使命を負わされてしまった彼女。 重い、余人には代わりえない責を負わされてしまった彼女―――神の愛し子。 異界より舞い降り、神の声を聞き、神の力を使い、穢れを祓い、この京を救う斎姫。 けれど。 私の前では、ただの心優しい、軽びやかな愛らしい少女。 誰よりも愛しい私の月の姫――― かの姫とのしばしの逢瀬を楽しみに、遅くなったが今日もいつものように参内の帰りに土御門殿に立ち寄った。 しかし、疲れていたのだろうか。ずっと明るく振舞ってはいたけれど。 常の花の綻ぶような笑顔や輝くような瞳が曇っているように思えた。 これ以上どんな無理もさせたくない。 大丈夫ですよ、という彼女をやんわりと宥めて、残念ではあるが早々に退出した。 私がいたのではかえって彼女もゆっくり休めないようだから。 ―――本当はその枕辺と言わず、夢路の果てまでも、ずっと傍に付いていたいのだけれど? そう言ったら、真っ赤になった君に追い出されてしまった。 本気なのだけれどねぇ? 神子殿の房を後にしたのはよいが、なんとなく、すんなりと自邸に戻る気になれなかった。 透渡殿をことさらゆるゆると歩いていると、「少将どの」と、呼び止める声がした。 振り返ればこの邸の主、神子殿や八葉の存在を知る数少ない殿上人、政の中枢にある人物、その人だった。他愛ない挨拶のような二言三言を互いに優雅に交わし、その場を辞した。 穏やかに交わされた言葉、挨拶。けれど言葉に不似合いな光を湛えていたあの目を思い出すと、溜息しか出ない。帰らねば、という気分がますますそがれていった。 広大な土御門殿の庭。 門へと向かうはずの足は、夜の木々のつくる薄く広がる闇に誘われるように、あてもなく進みだした。 あれは―――釣殿か。 つい足の向くままにこんなところまで来てしまった。 今は篝火も、釣灯篭の灯りさえないその場所。ゆら、とひかれるようにそのまま歩を進めた。 水面を見れば、月影を映すはずのそこは薄白く光るだけ。今は何の影も見ることはできない。 見上げれば中空に懸かる月は朧。薄く厚く夜空に広がる雲は、月の光を反して夜空に斑な影をつくっている。けれど、早く流れる雲はひと時も同じ眺めを留めていなかった。 徐に近くの階に腰掛けて、今自分が通ってきた辺りに目をやると、濃く薄く、木々の枝が折り重なって暗い色ばかりを重ねた闇が広がる。 あちらにはいくつもの灯りが見える。では、向こうの、少し離れた薄くもれる灯りは私の姫の房のものか、庭の篝火は警固の灯りか、とぼんやりと思いながら――ついと空を眺めると、濃く薄く雲が広がり、月の影は朧にも見えなくなっていた。 ―――薄白い、闇。 『慰むる心はなしに雲隠り―――、か…』 つい口をついて出かけた歌を否定するように頭を振り、大きな動作で髪を掻き揚げ、小さく息を吐いた。 か細い月の光は辺りの様子を窺うにもまだ頼りない。 立てた片膝に乗せた右腕で蝙蝠を弄びながら、視線を落とした。見えない水面の月影を探すかのように――― □□□□□ 時の経つのは早い。 あと、1枚。四方の札もほぼ我らの手中にある。京に平穏が訪れるのも時間の問題だろう。 かの姫の献身の故に。 本当のところどのような結果が待っているのか、そのことに不安がない訳ではない。 京の行く末よりも、鬼共の末路よりも、己の生死よりも知りたいことがある。 この戦いが終わった後、君はどうするのだろう――― 何故これほどに餓えているのか、自分でも分からない。 愛らしく愛しい私の月の姫。 稚い仕草や表情はまるで唯人と変わらない。けれど。何ものにも縛られない自由な心、気高く清らで美しい柔らかなその魂、慈悲深い、貴女。 その稀有な魂は、私などには眩しすぎて。本当に月から舞い降りた天女のよう。 その貴女が、君が、私の腕の中に降りてきた―――この僥倖。 彼女を知って。この手に入れて。私だけの想い人、私だけの月の姫となっても。 それでも心はまだ満たされない。 本気の恋―――そんな言葉だけでは全然足りない。愛しい恋しいと溢れる想い、これまでに感じたことのないほどの狂おしさで彼女ただひとりを欲するこの思い、情熱、熱情―――持て余すほどに激しく湧き起こるこの感情も、君が与えてくれたもの。そう思うとまた一興ではあるのだけれど、いつまで抑えが効くのだろう。 君もまた私を同じように恋うてくれている、欲してくれている、そう言ってくれた。 やっと掴まえたその確かな温もりは、決して誰にも渡さない。 ―――そう、決して手放しはしない。たとえ、神であろうと、貴女自身の願いであろうとも。 もっと彼女のいろんな表情を見たい。 もっとその声を聞きたい。 もっと触れていたい。 その身も心も、すべてを知りたい。 もっと、私だけの知るあなたが欲しい。 もっと、もっと、もっと――― 切ないほど、狂おしいほどに欲してしまう、焦がれてしまう。 そうして、何より。 彼女のすべてになりたい自分がいる。笑顔も、喜びも、彼女にそれらを与えるのは自分だけでありたい、と狂おしいほどに願う自分がいる。 君の笑顔を曇らせるものは、悲しい思いをさせるものは、すべて取り除きたい。 安らぎや幸せ、そんなものだけで君を包んでいたい――― だから。君に不安な思いがあるならば何をおいても払いたい。 なのに。 もどかしい、もどかしい、もどかしい―――もどかしい。 ずっとじわじわ滲み出続けているもどかしさを抱えたまま、今日も彼女の房を辞してしまった。 疲れだけのせいなのだろうか、いつもの明るさが無かった。 戯れを仕掛けても、覗き込んだその瞳には恥らう色のほかに、何か暗い光が燻っているようで。 大抵のことならばあきれるほど素直に顔や行動に表れるのに、わからない。 何ゆえの翳りなのか、―――それがわからない。 「何かお気にかかることがある?」 問いかけても、 「何もないように思いますけど、なんでですか?」 そんな答えしか返らない。 「友雅さんこそ疲れてませんか、今日もお仕事の帰りでしょう?」 反対に私の身を案じて、また少しその表情が曇る。 けれどそこには、自分が無理をさせているのではないかという心配と、私への気遣いと愛情が溢れている。 私のための表情、私への思いゆえのその言葉に、喜びで満たされていく自分を感じてしまう。 嬉しくて嬉しくて、心配げに私の顔を覗き込む彼女に、ついうっとりと魅入ってしまった。 ―――結局、彼女の不安を除くことも知ることもできないまま、今日も辞してきてしまった。 蝙蝠を弄ぶ手が止まる。僅かに視線を動かすが、目の前に広がるものは、変わらない暗い色と薄白い光。 知らず、長く細い息が漏れる。 今日も――― もうひとつ、今日も変わることなく交わした君との会話。 それはすでに日常的に交わされる会話のひとつ。 拗ねたように君が問う。 「どうして名前を呼んでくれないの?」 「君の願いならどんなことでも叶えてあげたいのだがね。でも、今は、ダ・メ。」 いつもの、君の言うところの『反則でずるい』笑顔で私が答える。 君にはふざけているように聞こえるかもしれない。でも、本気なのだよ。 同じ異界からきた彼らは簡単に君の真名を呼ぶ、誰憚ることなく。 君は他の者にもそれを許してしまう。その方が嬉しい、とも。 だから私にもそう呼んで欲しい、と。 ねぇ、かの地のことはわからない。けれど、ここではそれは、私の、私だけの権利なのだよ? 子供のようだと君は思うだろう?。だから尚更、今は君の名を素直に呼べないのだよ。 いつか、君のすべてを私のものにする日が、君の真名を呼ぶ日だろうと、柄にもなく思い定めてしまったのだから――――まるで子供のように。 「名前を呼んで?私は『月の姫』でも『龍神の神子』でもない。ただの「あかね」として、あなたのそばに居たいだけなの。」 その言葉に、私が打ち震えるほどの喜びで目が眩んだことを君は気付いていただろうか? その時の君の瞳。君に求められていることを感じさせてくれる、訴えるような、熱を持った君の瞳。 すぐにでも攫っていって、閉じ込めて、己のものにしてしまいたい衝動を抑えて。平静を装うのにどれだけの忍耐を要したか、君は知らないだろう?ただ抱きしめるだけで済んだだなんて、自分でも信じられないよ。 なんと甘く温かく満たされたひとときだったのだろう――― けれど ―――君は月の姫だよ。思いを交し合えた今でも、こんなに遠い。 いつになったら、貴女を「私のあかね」と呼べるのか――― いつか君は言ったね。 「みんなを助けたい、大切な人を守りたい。だから絶対負けたくないんです。」 真摯な顔。稚さが勝るいつもの表情とは違う、少し硬い顔で。 「みんなも勝つために命がけで戦ってくれてます。でも、戦えば必ず勝つ、って事じゃないでしょう?怖いんです、怖い…。誰かが傷つくのも、戦いに負けることも。大切なものを失うかもしれないことが、守れないことが…怖いの。」 手のひらを、爪が食い込む程に握りしめて、遠く何かをひたと見つめる君。 「でも―――勝ちたい、勝って――――。」 ゆっくりと私に顔を向け僅かに震えながら、けれど、意思の強い瞳は『負けたくない』という思いと同じ位の強さで私を映している、ように見えた。 視線が絡んだ一瞬のち、 「だから、でも、怖いけど、この世界を守るって決めたんです。頑張らなきゃ―――」 息を吐いて私を、そして前を見つめる。 明るい、笑顔を作って―――。 この思いを、どう伝えたらいいのだろう。そんな笑顔はさせたくないのに。 ただただ私は君を包む腕に力を込める。強く、強く。私の思いの強さのままに――― ねぇ、その瞳はどこを見つめていたの?その視線の先にはいつも私だけであって欲しいのに。 『勝って――――』に続く言葉を、私に聞かせて?君の口から聞きたいのだよ。 きっと、私の思うとおり君は思ってくれている、と、自惚れても良いだろうか? ――――勝って、私と共に在りたいのだ、と。 そのとき。低い、嗤うような囁きが、どこか、から聞こえてしまった。 『―――勝って、元の世界に戻りたい、のかもしれないよ。』 『―――戦いに勝っても、黄泉路を辿ることもあるしねぇ。』 ――― 一度聞こえた囁きは、脳裏に染みついて、未だ拭えないで、いる。 そして、運命の時はひたひたと近づく。 その時、貴女は本当に私を選んでくださるのだろうか? 黄泉への扉は閉ざされたまま、で――――? やっと掴まえたこの温もりは誰にも渡さない。決して手放しはしない。 神であろうと、君自身の願いでも放さない。 その思いは変わらない。 それなのに。 この漠然とした不安。日々大きく膨らんでしまった不安。 君を失うかも知れない不安が常の自分をどこかに追いやってしまう。 いや、自信や落ち着きなど、君の前ではないに等しいものだったよ。いつもいつも。 君はそうは思っていなかったようだけれど、ね。 甘い空気の漂う中で、戯れるように繰り返される会話。 けれど、いつからか甘いだけではなくなっていたね。 時折、君の瞳がなんともいえない色に揺らめくようになったのはいつからだったろう。 二人だけのひと時。 甘く、しっとりとした空気の中で、恥らう君の瞳の中には確かに私への思いだけ、だったはず。 なのに、怯えるような、今にも泣き出してしまいそうな、そんな暗い揺らめきが見え隠れしだした。けれどそんな思いは一切表情に出そうとしない君。決まって明るい話題や、私を驚かせるような仕草ではぐらかしてしまう。 そして。いつしか、この戯れるような会話が繰り返されるようになっていった。 「ねぇ、名前で呼んで?」 ―――ふふふっ、 その問いに、笑顔と軽い口付けだけで答える。 『むー』と可愛らしくむくれてみせる君。 望む言葉が得られないから、なんとかして言わせようとムキになっている、ように見える。 その顔がまたとても愛らしいので、私もついつい 「私の元に残って下さる?」 艶を含ませた声で、耳元で囁いてみる。 君は眦を、頬を、項まで染めて。わたわたとそんな様子を隠すように視線を泳がせる。 ついには話をはぐらかせてしまう。なんて愛らしいのだろうね。 君のその表情は、諾、ととってもいいのだろうか? こんなに不安なのだよ、君からたったひと言を得られぬのが。 ならば、せめて。 「つれないねぇ。」 と、からかうように微笑んで、君に口付けを落とし、抱きしめる。 ―――微笑むふりをしてしまう。 悲しいね。 本当に君は月の姫だよ。思いを交し合えた今でも、こんなに遠い――― □□□□□ 見上げれば雲間から月が薄い光を漏らしている。 天に吹く風は今宵の月をどうするつもりなのだろう。 隠してしまわれるのか、雲を払って下さるのか。 ――――知らず大きな溜息が零れた。 ふと、気配を感じて振り返れば、いつの間にか君が静かに佇んでいた。 こっそり庭の方から歩いてきたのだろう、単の上に軽く肩から袿を引っ掛けただけの君。 この薄白い月明かりの元では切ないまでに清らで美しく、一層儚げなその姿。 ――――なによりも誰よりも愛しい君。 ――――今はその愛しさが、いっそ私には苦しい。 いつもいつも君を感じていたいのは偽りない本心。 でも今は、こんな姿を君に見られたくはなかった。 けれど、こんな時にも君を遠ざけることなど、できない。 うまく微笑めただろうか、私は君に無言で手を伸べる。 君は小さく微笑んで、手を伸ばして私の手を取る。 君はそのまま傍らに座ろうとしたけれど、するりと抱きこんで、膝の上に抱き込んでしまう。 優しく、けれどそのすべてを確かめるように、強くしっかりと。 君も最初は驚いたようだけど、やがて懐に擦り寄るように、身体を預けてくれる。 君の身体にまわす腕にも力がこもってしまうのが自分でもわかるよ。 身体中で君のぬくもりが感じられる。 腕の中から、膝の上から広がる、―――この幸福感、この充足感。 湧きあがってくる温かいものにしばし身をまかせていたら、君がポツリと呟いた。 「―――もう、帰ったと思ってました。」 「―――左大臣とね、少しお話をしていて。まぁ、それはすぐ済んだのだけど。 もう少しこちらで月でも眺めていたくなってね。―――神子殿こそ。眠れないの?」 「なんとなく…」 それきり二人、口を閉ざしてしまった。 常のように、投げかけられた言葉に、それ以上の言葉を尽くして貴女を恋うことも、 貴女の不安を除くような戯れを語ることも、今はできなかった。 ただただ、その存在とぬくもりを感じていたかった。 ――――いや、己の望まぬ言葉を聞きたくなかった、だけ。 しばらく。どのくらい時が経ったのか―――― ただ静かに朧の月と水面の月とを見るともなく眺める。 いや、何も見てはいなかった。 何も言わず、互いの温もりを感じていただけだったかもしれない。 「もうすぐですね。」 「――――」 「もうすぐ、終わりますね。」 何が、とは聞かない。言わない。 「――――名前、呼んでくれませんか?」 今、聞きたくない、答えたくない、その一言。 けれど、そう問われれば常のように答えてしまう。 「私の元に、留まっては下さらない?」 返事は、ない。 いつもならそれでもよかったのかもしれない。 けれど、今はどうしても自分が抑えられなかった。 君を追い詰めるかもしれないと分かっていても止まらなかった。 「君は、私を置いて月に還るの?共に在りたいと、思うのは私だけなの、神子殿?」 「……っ、そんなこと、ない、っ。私も一緒に居たい!ずっと一緒に居たいの。でも…」 弾かれたように私に向かって答えてくれた。 「でも?」 「――――」 「――――どうしても、名前は、呼んでくれないんですね。どうしてですか?」 「こちらでは、女性の真名を軽々しく口の端には載せないよ。」 「でも、呼ばれたかった。聞きたかった、な。」 ポツリと呟く。ホンの少し怨ずる様に、拗ねた子供の様に。諦めが感じられる声に、胸が痛む。 本当は、そんな理由じゃない。 名前ぐらい、呼ぼうと思えば呼べるはず。それが。何時からか、どうしても声に出せなかった。 夜毎夢の中では君に囁きかけるのに。幾度も幾度も。けれど現に君の顔を見たとたんに、 「 」 そのひと言が、出てこない。 呼んでしまえば、君はその言葉と共に、もう振り返ることなく走って行ってしまいそうで。 なぜそう思ったのかなんて分からない。ただいつの間にか、そう思ってしまった。 そして、そのことに知らず怯えていた、自分。 君が思うより、ずっとずっと臆病な私。 こんな私を、君は笑うだろうか。情けない男よ、と―――― 涙が、流れている。滔々と、静かに。じっと私を見つめながら流される涙。 常の稚い、生き生きとした少女にはない、憂いを帯びたその表情。このまま消えてしまうのではないかと思うくらいに儚げで。なのに、息を呑むほど美しかった。 「何故、お泣きになるの?その涙は―――」 言い終える前に、 「ねぇ、何を考えているんですか?この前から、ずっと。私のせいですか?友雅さん、私を見て、いつもとても苦しそうでした。二人でいても、笑ってるふりしてるように感じて。からかってる時も、泣きそうに見えて。もし、私のせいなら、わたし―――、」 私の腕を押しやり、向き直るようにして身体を起こして、何かを堪えたような熱い瞳で私を捉えた。 驚きですぐに言葉が出なかった。 その沈黙をどう取ったのか、 「私、友雅さんが好き。こんなに好きになれる人にはもう会えないって思うくらい。きっとこのまま元の世界に還ったら寂しくて悲しくて死んじゃうかも、っていうくらい友雅さんが、好き。 だから、後悔しないように、いっぱいいっぱい好きな気持ちを伝えたいって思ったの。そして、友雅さんにも幸せな気持ちになってもらえたら、いいな、って。 なのに、だんだん悲しそうな顔になっていってる。私といるから?私が悲しい思いをさせてるのかな、って。名前で呼びたくないっていう友雅さんに、我儘を言い続けてるから?それとも、他に何かしたのかな、って、ずっと気になってたんです。 でも、今日も私のお部屋に来たくれた時ね、いつもみたいに、いろいろ、その、好き、とか言ってくれたりはしたのに、友雅さん、自分のことは何にも話さなかったでしょう? いつも、私のこと、聞いてくれたりしてるのに、私には友雅さんの悩み事は聞かせてくれない。それってすごく寂しいんですよ?悲しいんですよ?こんな気持ちでは寝られなかったんです。」 一息につかえていたものを吐き出すように訴える君。 「友雅さん、何を考えているんですか?私じゃ力になれませんか?」 私の腕の中から、抱きこんだ懐の中から、真摯な熱い瞳で私を捕らえる。 何か、言わなければ、と思った。 が、何からどう言えば良いのかわからない。 今のこの気持ちをどう言えば良いのだろう? 君は私の不安を感じて、そのことで思い悩んでいたというの? それこそ、君は自分の運命よりも私の不安を拭えないことに心を砕いていたと仰るのか。 驚きと、情けなさと、愛しさと―――すべての感情という感情が、彼女を恋う思いのすべてが、彼女を目指して迸るような、荒々しいまでの感情の昂り。 そして、同時に襲ってくる激しい悔悟の思い。 「すまなかった。本当に愚かだったよ、私は。」 思う強さのまま、強く強く抱きしめて、そして君の目をまっすぐに見て、告白する。 「怖かったのだよ。いつか、君が私の元から離れてしまうかもしれない、と思った。月に還ってしまうかもしれない、龍神の元に行ってしまうかもしれない、とね。君がいつかいなくなってしまうかもしれないと思うと、それだけが怖かった。けれど、そんなことを思う自分が情けなくて、君に情けない姿を見せて厭われるのが怖くて。」 そういう声は少し震えていたように思う。 また情けないところを見せしてしまった、と自嘲してしまう。 そんな私を見てふわりと小さな笑みを見せてくれた。 「私、ね。友雅さんに『残って欲しい』って言われて、本当に嬉しかった。でもね、すぐに返事も出来なかった。あちらに戻りたいって、まだ迷う自分もいる。天真君や詩紋君達は還りたいと思ってる。私が一緒じゃないと還れないかもしれない。本当に嬉しいけど、まだ迷ってるの。迷ったままじゃ、返事なんてできないよ。適当な返事もしたくないの。―――なにより友雅さんには嘘を吐きたくないから。」 ううん、違う、と小さく呟いて、縋るように私の衣を握り締めて。絞るような声が耳を打つ。 「友雅さんといたい。ずっと、ずっと一緒にいたい。それは本当。でもね、神子じゃなくなった私でも、いいのかな、って。だって本当になんにもない、好きって気持ち以外なんにも持ってない普通の子なんだよ、私。神子でもないし、姫でもないの。取り立てて美人でもないし何にも知らない。今までの友雅さんの知ってる女の人には何もかもが逆立ちしたって敵わない。なのにほんとにずっと傍にいてもいいのかな、って。」 最高の、極上の告白。 私を欲する、私の欲しかった言葉が、私の耳に、裡に響く。 頭の芯が痺れるほどの喜びと、泣きたくなるような安堵感が熱く私を満たす。 「私はね、いつか、君が龍神の神子から解放される日を心待ちにしているのだよ。龍神のものでもない、ただ私だけのものになってくれる日を。『あかね』と、ただ呼べる日が来るのを本当に待っている。でも、今そう呼んでしまったら―――君はもうなんの心残りもなくなって、月に還ってしまうかも、と、詮無い物思いに囚われた。」 君の顔がはっとしたように上がった。そして次の瞬間、綻ぶように微笑んだ君は。 息を飲むほど美しかった。愛らしかった。私だけに向けられた、極上の笑顔。 「ね、もう一回。」 一瞬何のことか分からず、ひどく間の抜けた顔をしたように思う。 「呼んでくれた。ね、もう一回、呼んでみて?ね?」 可愛らしくお願いされるが、どうしようか逡巡していると、 「うふふ、顔が、赤いですよ?」 ああ、もう! 「あかね。あかね。あかね。あかね、あか、ね―――」 何度も何度も、君の名を呼び、その首筋に顔を埋め、強く強く抱きしめる。 君も、私を抱きしめる。その手が慰撫するように何度も何度も私の背を滑る。 なにかが吹っ切れてしまったのが、自分でもよくわかる。 いつしか、君の名で君を縛ろうとしていた私だったのに、本当に縛られていたのは、私。 君を絡め取りたいと思っていたのに、君ではなく不安に絡めとられてしまっていたのは、私。 そのことで、君に不安な思いをさせてしまった愚かな私。 本当になんと愚かで、情けないことか。 そう、何を考えることがあったのだ?彼女の心が私の元にあるのならば、何を惑うことがあったのか。 君が月へ還るならば、私が月へ行けばよい。 黄泉路を辿らねばならないというならば、私も共に往くだけだ。 いや、もとよりそんなことには私がさせない。 こんなに簡単なことなのに、なぜあれほどに囚われてしまったのか。 くすり、と小さな笑い声がした。 「らしくない、ですよ?弱気な友雅さんなんて。何でも分かってて、いつも自信たっぷりで、余裕な友雅さんはどうしたのかなぁ?」 小首を傾げながらの冗談交じりな口調。けれど、私を見つめる瞳は本当に温かく、包み込むように優しく。 そして何よりもう君の瞳の奥に揺れていたあの光がなかった。 それだけであの不安もどこかへ消えたようだった。 後はただただ、君を抱きしめる。愛しい愛しい、君。私だけの、貴女。―――あかね。 静かに、静かに、君を包み込んだまま、お互いのぬくもりだけを感じて、抱き合っていた。 二人だけ。他には何もない、君だけを感じて――― 君の髪が微かな月の光を返して、柔らかく光っていた。 やがて。 柔らかな髪に口付けをひとつ落とし、 「明日も早い、もうおやすみ。―――送ろう。」 ようよう彼女を解放し、房の前まで送った。 房の前、御簾の手前で、名残惜しげに君の肩を抱き寄せる。 回した手に重ねられた君の手の暖かさが、この思いは自分だけのものではないことを伝えてくれる。思いを受け取るように、返すように、きゅっと君を抱きしめる腕に手に力がこもる。 「また明日。」 額に口付けをひとつ。 「おやすみなさい、友雅さん。」 「おやすみ、あかね。愛しい私の月の姫。良い夢を」 ふわりと微笑み、御簾内に滑り込んだ君に小さく声をかけて。今度こそ姫の房を、土御門殿を後にする。 先ほどと同じ透渡殿を、今度は微笑すら浮かべて歩く。 ふと視線の先には、そよと揺れる蒼く光る木々。 見上げれば雲はすっかり払われ、煌々と月が輝く。望月には些か足らないけれど、その明るい光は天空の高みに在りながら、心の裡まで照らすように輝く。 ―――そうだね、君さえいれば何も要らない。君が居る所が私の在る場所なのだから。 ―――――――――雲が晴れた。 Fin 注: 慰むる心はなしに雲隠り鳴き行く鳥の哭のみし泣かゆ (万葉集)
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